真言宗智山派正福寺は、檀家さん、信徒さん、近隣の皆さんの「生きる力」になることを目指しています。
生きる力‐仏さまに祈り、仏さまと出会う
Shofukuji Shingon Temple
正福寺は「真言宗智山派」という宗団に属しています。真言宗は今から1200年ほど前に弘法大師空海(774年‐835年)によって開かれました。1200年以上の歴史を経て現在はその血脈を引き真言宗を名乗る宗団は100を超えています。
その中でも特に本義をわきまえ、伝統と格式そして弘法大師の教えを正統に現在に伝える宗団が18あります。これらの宗団は、高野山や奈良の長谷寺、京都の東寺等の有名寺院を総本山とする真言宗各派です。
これら真言宗18派は、よく他の宗団・教団で聞かれるようなお家騒動などで分裂したのとは違い、弘法大師が活躍していた頃からの習慣で真言密教の各分野毎に修行道場を分けたことから、幾つかの主要なお寺を中心に活動したことが原因となっています。ですからこの18派は今でも、弘法大師の御遠忌法要や毎年行われる後七日御修法という国家鎮護の大法要は共同で行っています。
18派の中のひとつ、真言宗智山派の総本山智積院(ちしゃくいん)は京都東山七条にあります。京都の有名なお寺に比べると、ちょっと知名度が低いような気もしますが近隣には三十三間堂や京都国立博物館もあり、近くまで来られた方は多いのではないでしょうか。
真言宗智山派を語る上で欠かせないのが興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)( 1095年‐1143年)です。当時の高野山の堕落を憂い、弘法大師の教えを再興するために様々な改革をしたのが興教大師覚鑁でした。
興教大師覚鑁は後に高野山を降りて、かって寄進を受けた地、根来山(和歌山県)に移られ、その地で49歳で入滅されました。
興教大師亡き後の根来山は、学徳に秀でた頼瑜僧正(らいゆそうじょう1226年‐1304年)により大伝法院や密厳院が高野山から移築されいよいよ発展し、政治的にも経済的にも大勢力となりました。しかし、この勢力に目をつけたのが豊臣秀吉でした。秀吉は根来山を攻めると、山内の堂塔伽藍を灰燼に帰してしまいます。この時、根来山の塔頭寺院である智積院(つまり智積院はもともと和歌山根来山にあったのです)の能化(のうけ…管長のこと)であった玄宥(げんゆう)僧正は弟子とともに難を逃れますが、安住の地が見つからないまま智積院再興の志をもちながら各地を流転したのでした。やっと安住の地を得たのはそれから10数年後の慶長6年(1601年)のこと。徳川家康により現在の京都東山に寺院を寄進され、五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)を再興しました。
智積院は根来時代の伝統を踏まえ、特に「学山」として教学の研鑚や修行などを厳しく行い、また、他宗の僧侶や一般の学徒にも開放された「学問寺」としての性格を持つ寺として、江戸時代には多くの学匠を輩出するようになりました。しかし明治時代になると、新政府の神仏分離政策により土地を没収され、また、明治15年(1882年)には金堂が焼失するなどの不幸にみまわれます。しかしこれらの困難を乗り越え、明治33年(1900年)、真言宗智山派の総本山となり、今に至ります。
現在は末寺数3000ケ寺を数える真言宗第2番目の規模を誇る宗団です。
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